逃避行


時たま、自分は現実世界にきちんと生きられているだろうかと考えることがある。

お店に来てくれている人たちは、毎日朝早くから会社や学校に行って、もしくはリモートでも一生懸命に働いたり勉強したりしている合間に、まるでしんどいことなんて普段は無いよ、なんて面持ちでお店に顔を出してくれて、楽しそうに買い物をしてくれる。

ましてや僕たちはそれ買わんくてもええやん、だとか、なんで欲しいの?とか、少し意地悪をすることもあるから尚更可哀想だ。

せっかくの休みに洋服屋に来て、店員からイジられるなんて、ドMだとしか思えない。

本当にありがたい。

そうやってお店に来てもらえることで自分は現実世界に生きているんだなあと感じることができる。

おそらく、皆ある種の「逃避行」を試みているのだと思う。仕事や学校というルーティーンワークの中で社会の中に生きる自分を担保する一方で、もっとパーソナルな、自分が自分であるための要素を確かめるための逃避行。
考えることを放棄する現実逃避ではなく、前進するための能動的な逃避行。

そのバランスは人によってまちまちだとは思うけれども、どちらも間違いなく大切で、そのシフトチェンジは定期的にあって然るべきだと僕は思う。

自分の場合は洋服屋 - どちらかというとニッチめな- 、に所属しているから、ある意味普段から逃避行し続けている、むしろし過ぎなくらいだとは思うが、だからこそよりフレッシュなものや見たことが無いものを常に探し続けているんだろうと思う。

自分が一番変じゃないと分かっているからこそ、変わったものに惹かれるんだろう。

今まで、自分が好きな音楽は、ジャンルは様々あれど、基本的に「歌ものでないもの」だった。
歌が入っていない、もしくは歌ではなく囁くような声だったり、朗読のような歌詞が入っているものであれば聴けなくはない、といった風に。

それはおそらく日常的に「会話」を仕事道具として使っている僕が、音楽を聴く時は、唯一誰とも会話しない時間でありたいと思うからなのだろう、そうして僕は「逃避行」をする。

それが最近ではもう少し広がってきて、相変わらず歌がメインの曲を聴くのは苦手だが、曲と歌が適度なバランスで保たれている、つまり歌が曲を構成する音の一要素となって響いてくるものは聴けるようになってきた。

そのおかげで、歌が入った曲を聴く機会が増えてきて、現実離れした音楽と、ある程度現実に自分を留めておいてくれる歌詞の組み合わせがなんだか好きになってきた。

サウナではないが、それはある種の整った感覚なのかもしれない。

少し儚い、ピアノやギターの残響音や、強めにかかったエコー。

ブルーやシルバーのスーパードライと朝焼け。微睡ながらぼーっと眺めるお香の煙を嗅いでハッとする。泥濘んだ地面に沈む革靴と電灯が歪んで写る水面。アクリルの額に収まった水彩画。曇り空の向こうの皆既月食。

旅行も行きづらいし、とはいえ山や川に行く時間もあまりない。
毎日着るものだからこそ、見るだけで落ち着きたい。見るだけで、少し遠くに意識を持って行きたい。
でも確かにそれを着ている自分は存在して地に足をつけている。

現実的過ぎるスタイリングは、つまらない。
誰でも着れる洋服を着るよりかは、少し背伸びしておきたい。
浮世離れはしたくないし、宙ブラりんにはなりたくない。

明日からSalでそういったイメージで洋服を並べていますので、少し違った目線で楽しんでもらえると嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

イタイタイコウ






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