クソみたいなブログ

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「半袖バカ」

「今日いい天気だね。暑いのかな?」
「暑いみたい。半袖バカが増える。」
「半袖バカ?」
「うん。この時期に半袖で歩いてたらバカっぽくない?」

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人間は時に愚かで浅ましい関連付けを行う。
そこにはなぜ半袖がバカっぽいのかということを論証する余地はなく、ある意味強迫的に、ただしっとりと液体のように侵入してくる。



マス、と呼ばれるものと、ある一定の距離感を保ちながら、付かず離れずを繰り返す僕達だが、ゴールデン・ウィークという、噛んだ後のガムみたいなネーミングセンスの大型連休という、ド・マス(この「ド」はド・モルガンの法則の「ド」ではなくて、ど根性ガエルの「ド」。)な行事に対しては何らかのポーズを取らないといけないようだ。

つまり、なぜこうやってくだらないことを、それはこの後も続くが、書いているかというと、愚かで浅ましい関連付けによって、ゴールデン・ウィーク、通称:金休辞退宣言時にブログを毎日書くということになったからだ、ということだ。

期待1割、プレッシャー9割を感じながら、読み物としてのクオリティ、分かりやすさ、ワードチョイス、そして何より読後感の気持ちよさ、を意識しながらブログを書くというこだわり、という言い訳で、常々筆が重いことで有名だが、クオリティは一旦無視で、という謎の許可が出たため、今日は重い筆を挙げて、如何にクソみたいなブログを書けるか?に挑戦してみようと思う。

 つまり、ここまで読んでいる時点で時間の浪費でしかなく、今このブログを読んでいる暇があったら、自分の好きなものについてネットサーフィンをするだとか、買ったけど読んでいない本を読むとか、好きなあの子に告白するとか、そっと画面をオフにするだとか、そういうことを今すぐした方がいい。

 もし、この瞬間このブログを読むことしかすることがない、そういう人が仮にこの世界で存在するとしたら、そのまま読み続けていってもらおう。

 

今日はクソみたいなブログを書きます。

 

 クソみたいなブログ、と一口に言っても、クソみたいなブログの書き方がわからない。今までの人生でクソみたいなブログを書きましょう、という課題も出たことが無いし、おそらく書こうと思ったことがない。

さらに、クソみたいなブログの定義をするには何をもって「クソ」であるのか、そこから論理的に思考していかなければならない。論理が飛躍すると「クソ」であるかどうかの価値判断が正当に行われないと考える。論理が飛躍したそれは「クソ」ではなく、ブログではない何か、であると考える。

さあ、なにをもって「クソ」であるのか。
「クソ」であるというのは、要するにクソ=排泄物のようであるという意味だとする。排泄物のような文章とはどういう文章であろうか。

 以下の3つのパターンが考えられる。

①排泄物のように捨てられるような文
②排泄物のように見ると不快になるような文
③排泄物のように肥料のように肥やしになる文

実際の様々な文章に触れていきながら、どのような文章が「クソ」であるか考えを巡らせてみよう。

 

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黄金の太刀が太陽を直視する

ああ

恒星面を通過する梨の花!

 

風吹く

アジアの一地帯

魂は車輪となって、雲の上を走っている

 

ぼくの意志

それは盲ることだ

太陽とリンゴになることだ

似ることじゃない

乳房に、太陽に、リンゴに、紙に、ペンに、

インクに、夢に! なることだ

凄い韻律になればいいのさ

 

今夜、きみ

スポーツ・カーに乗って

流星を正面から

顔に刺青できるか、きみは!

-「燃える」 吉増剛造

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日本の現代詩人である吉増剛造が20代の頃に発表した詩。
現代詩という世界は言葉が形骸化し、理解するのが困難に見える。が、一種の音楽のように、リズム遊びを楽しむように、赤ちゃんが口唇期に快楽を口から得るように、ただその詩から感じる音と想起される情景を感じてみてほしい。



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高い。高い。高い。

意外だ。感嘆。凱歌。
偉観。言いがたい感慨。偉大だ。
眼界の異化。大海の海胎だ。抱いた海岸の姦淫か。かの断崖の加担。岩塊の加害。対岸の堕胎。戦い。単眼のタイタンの眼窩。
怪異。怪異。ダダか。
陰画。
かの画家、画壇の大家の描いた絵画だ。いい画題だ。買いたい。野の、田の、互いの対位。橙の香。閑雅。
ん。看過か。会員会館だ。かの館員。開化館だ。外大だ。短大だ。眼科医院だ。感化院だ。
快感。いい高台だ。無料の高台だ。
ん。鷹だ。『鷹の台』か。
眼下の医院。花壇の開花。

-「残像に口紅を」 筒井康隆

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「パプリカ」の原作で知られる筒井康隆氏が1989年に発表した作品よりの一文。世界から「あ」「い」「う」…少しずつ使える文字が無くなっていくとそのような物語が紡ぎ出されるか、ということをテーマにした小説。引用した文章は一見詩のように見えるが、言葉が消え去っていった終盤のワンシーンである。

日常会話では生まれない、文字を交通信号のように、あるいは地図記号のように、本来的な意味である記号として捉え、そこから想起する世界が確かに存在することの実感に浸ってほしい。

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小学校3年生の時、わたしの同級生は両親に内緒で自分に名前をつけた。
『止したほうがいいよ』とわたしは言った。
『へいちゃらさ』とそいつは言った。
『僕の名前はすごくいいやつだよ』とそいつは言っていた。
そいつはそいつの『すごくいいやつ』に殺されてしまった。
それはもう滅茶苦茶に残酷な殺され方だった。
その死体がかつて人間だったとは誰にも信じられないくらいだった。

-「さようならギャングたち」高橋源一郎

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競馬評論、サブカルチャー評論など、幅広い教養とアグレッシブな文体が特徴的な高橋源一郎氏の初期の作品。言葉を捻じ曲げ、世界を捻じ曲げることで、超現実的な世界観を生み出す。
この人のエッセイもすごく面白い。奇人のエッセイはすごく面白い


いかがでしたか?
「クソ」について少しはお分かりいただけたでしょうか?

僕には「クソ」は分かりませんでした。

以上、ゴールデン・ウィークにオススメの本3選でした。

イタイタイコウ

 

 

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