待っている


待たなくてよい社会になった。

待つことができない社会になった。

待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれて、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。待てど暮らせど、待ち人来たらず……。だれもが密(ひそ)かに隠しもってきたはずの「待つ」という痛恨の想(おも)いも、じわりじわり漂白されつつある...
「「待つ」ということ」 - 鷲田清一


どうも、遅刻組です。もとい、イタイです。

僕は大いに遅刻を奨励している。
待ち合わせには遅刻すべきだ。どんどん遅刻していこう。
日本遅刻の会を作りたいくらいだ。

遅刻をするとどんなに良いことがあるか。

まず、遅刻をすることで、待たされた相手は余剰の時間を持つことができる。
完全に自由な時間だ。オンでもオフでもない、完全に自由な時間。

その自由な時間で、いつも通らない道を通ってみたり、前から気になっていたお店を覗いてみたり、読んでいなかった本を読んでみたり。時間というものが、何も強制されない、自分だけの所有物となる。

と、ここまで威勢よく書いたところで、自分でも恥ずかしくなるくらいの屁理屈a.k.a.御託を並べることしかできないことに途中でうんざりした。
ゴールデン・ウィークも終わった事だし、下らないブログはやめにしよう。


「待つ」という言葉には古来様々な含みを持って使われてきた。

梅活けて君待つ菴の大三十日 - 正岡子規

立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む -在原行平

「待つ」人には情緒がある。その、これから来たる何かに対して熱情がある。
石の上にも三年。待つ間が花。


先週末ようやく届いたロンドンからの便で、春夏の新作たちは出揃いました。
待ち遠しく、待ちくたびれました。

ただ、既に多く旅立っていく中で、「待つ」ための洋服たちがまだまだある。
すなわち、ある種不便で、数分の時間を気にするのが煩わしくなるような洋服たち。


テーラード・ジャケットは全ての洋服の源流である。
けれど、最もハードルが高いもののように思われる洋服の一つだろう。
僕もそう感じていた。


サルバムの藤田さんは毎シーズン、必ずテーラード・ジャケットを作っている。それどころか、かなり型数が多い。ほぼテーラード・ジャケットしかないシーズンもある。本人もずっと着ている。


ドリス・ヴァン・ノッテンも毎シーズン、テーラード・ジャケットを作っている。それも、めちゃくちゃに型数が多い。ドリスならではの洗練された形だ。


 ウェールズ・ボナーは最近、ビスポークの技術を使って如何にコンフォートな生地で表現できるかのバランスを模索している。


この春夏からラインナップに加わったensou.は、 日本人ならではと言えるのだろうか、クラシックさとモダンさのバランスが気持ちいい。



ああ、なるほど。
とにかく、身を任せればいいのだ。

難しいことを考えずに、とにかく羽織ってみればいい。
テーラード・ジャケットは難しそうに見えるから、難しいことを考えないでいいようにいろんなデザイナーが試行錯誤しているんだ。
試行錯誤するってことはテーラード・ジャケットを着て欲しいからだ。

騙されたと思ってただ羽織ればいい。

それも1型だけじゃなく、全部。

合うもの合わないものは必ずある。
たまたま合わないものを選んだ経験から、僕は〇〇が苦手だ。と決めつけるのはあまりに早漏ではないかな。
わかった気でいるのはあまりに驕りすぎではないかな。

自分に合ったテーラード・ジャケットに出会えた時の快感と興奮。
まだ体験していないのはあまりに勿体無い。
まだ提供できていないのはあまりに悔しい。

そのために今年はたくさんテーラード・ジャケットを仕入れました。
真夏にテーラード・ジャケットに短パンにローファーにメガネっていうところまで想定しました。
けどそうやって考えていたのを、暖かくなってきてからようやく思い出しました。



テーラード・ジャケットは行動を変える。
冒頭に引用した鷲田清一氏の別の著書で、日常でヨウジヤマモトのスーツを着ていると、動きづらかったり、その洋服を着ているにふさわしい行動をすべきだと考えるようになり、電車に無理に間に合おうとしなかったり、買い食いをやめたり、なんて実体験を交えて例を挙げていた。

テーラード・ジャケットを羽織ればなんだかかっこ良くなった気がする。上品になった気がする。
下品なやつはテーラード・ジャケットを着て思いっきりビンタしてやろう。

テーラード・ジャケットはユニフォームのひとつだ。
ユニフォームでありながら、ファッションでもある。

「テーラード・ジャケットはあんまり着ない」とか、「メガネはあんまりかけない」とか、「革靴はあんまり履かない」とか、自分の経験の未熟さを責任転嫁して放棄するのはいたって芸がない。洒落てない。
そもそも似合わないという自信、はどこから溢れるのだろうかといつも疑問に思う。
謙虚と傲慢は紙一重。

テーラード・ジャケットは時代遅れの洋服だ。全然合理的でない。
2022年にガラケーを使っているようなものだ。
と感じるかもしれないが、否、テーラード・ジャケットというものはガラケー、スマートフォン、エトセトラ…に共通する「携帯電話」という概念そのものなのだ。
その時代に合った形で、フォーマットを変えていく。選択肢が増えると、そこに様式美を重視する価値観が生まれてくる…音楽でいう、フォーマットの選択を思い浮かべるとよりわかりやすいかもしれない。

 

テーラード・ジャケットは...








テーラード・ジャケットでも着て、気長に人を待とう。


イタイタイコウ

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