句読点

句読点が好きだ。



、は余韻を感じる、重ねちゃったりして、、

。はピリッとする。友達にこそ使いたい感じがする。ありがとう!より、ありがとう。

。には伝わる不安と伝わらない不安がある。


読点が多い8年間だった。次から次へと、新しい出会いにワクワクしながら、既知の人、コトにはその中で新しい景色を見れないかと、歩みを止めずにきた。一つずつのシーズンや企画、一日一日の終わりに句点ではなく必ず読点を打つことで、寄り道しながら進んできた。

一旦、Mukta / Salでの生活にピリオド。そう、生活。これからもこのお店は変わり続けるし、進み続ける。僕はここらで句点を打つが、また新しい読点が始まる。書くこと、話すこと、紡がれること、始まることによって始まるのではなく、終わることによって始まる。

 

 

こんにちは、こんばんは。イタイです。というわけで、新しいことを始めるために神戸を離れることにしました。というかもう、離れてます。セルフ送別会でもやろうと思ったのだけれど、僕はたぶんお店に初めて立った日も、普段店頭にいるときも、一区切りの日も、同じ心構えだし、僕は僕だし、それ以上でもそれ以下でもないので、まあいっか。ということであっけないピリオドでした。たぶん吉田くんは僕が神戸を離れたことにまだ気が付いてないと思います。



さて、改めて。

Mukta / Salは洋服との、価値観との、人との新たな出会いを生み出すプラットフォームの役割があります。服を通じた新たな出会いによってより深く自己を見つめ、明日からより良い生活を送る一助になる。オーナーの宮崎がお店を始めた当初からの思いが、Mukta(=解脱)という名前に込められている通りです。僕は2017年に入社した時から、その思いに共感し、自分なりのやり方で広げて強めることに邁進してきました。21歳そこそこのガキが宮崎、ロビンはじめ過去のお店のスタッフたち、取引先含む諸先輩方、友人、その他自分に関わってもらった多くの方々のおかげで、店の看板を背負う立場として経験を積ませてもらいました。


そして何よりはお客さま。幸いなことに、自分が入社した時から頻度の差は多少あれど、ほとんどのお客さまが今もお店に顔を出してもらったり、連絡をとったり、一緒にお酒を飲んだり、別の場所で活躍する姿を見たりと、僕が仕事をしてきた中で一番自信があるのはその部分かもしれません。


僕の後任は吉田と内海です。彼らは今年の春夏からお店に参加してもらっていますが、言葉を選ばすに言うと、僕を2つに分けたらこんな感じだろうなあ、という人たちです。堅物で繊細、人間としての魅力というのか、人としての趣深さがある吉田くんと、広島でファッション仙人をしていたので下界に降りてきてもらった内海くん。彼らのコンビネーションは控えめに言っても、良い服屋の条件を満たしているように思います。

Mukta / Salを通じて、服屋を通じて、ファッションを通じて、学んだことは人でした。これからも服を媒介にして人を学び続けるんだと思います。大学生の時にかじった哲学や民俗学、西田幾多郎や鈴木大拙、柳田國男に鷲田清一。いまだに分からないことだらけ、だけれど、思い悩むこと、考えることが即ち生きるということである、ということだけは知っています。

ますます最適化されているはずのこの世の中を、なぜか生きにくい人たちがいるとしたら、それを肯定できる場所がここMukta / Salです。ただ思い悩んだり考えたりするのは辛いだけなので、誰かが思い悩んで考えてデザインされ、また誰かが思い悩んで考えてお店に並ぶことになったその服を、楽しみながら思い悩んで考える媒介にするのです。それはもちろん食事でもいいし映画でもいい。音楽でもいいし、芸術でも、なんでも。僕の場合はたまたま服だった。Mukta / Salのスタッフも、お客さまもきっとそう。それでいい。それを全力で肯定するためにMukta / Salのような服屋がある。それを言葉にするのは如何せんくさいと思うけれど、まあ一区切りだしいいや。

そして、新しいこと。それは、Mukta / Salのプラットフォームの役割とはまた異なる、極端で不便で愛おしい空間、服屋が服をさらに愛せるようになる空間、さらなる対話を生み出す空間、そんな自分の空間を作ろう、と思っています。

名前はNip in the Air / ニップ イン ジ エアー 。場所は東京です。神戸や関西、どこでもいいですが、自分達が住んでる街や、周りにいる人が、かけがえの無いものであることを再認識してもらうきっかけになったらいいなと思って、自分には全く馴染みがない場所にしてみました。特に居心地も良いエリアではありませんが、自分が作る空間だけは都会のオアシスというか、サロンみたいになれば。お客さまはもちろんスタッフの誰にもほぼ何も伝えてないので、来てもらった時に楽しんでもらえると嬉しいです。

引き続き、バイイングやお店の企画には携わる予定です。たまにひょっこりお店にもいるかもしれません。

 

とはいえひとまず、


ありがとうございました。

 

イタイ タイコウ




最後に、数年前の宮崎の文章を引用して締めくくります。


日常について考える。
日常は当たり前のこと。
人にはそれぞれの日常があって、感じていながらも意識しないもの。
どこか曖昧で、そして続くもの。
非日常でも、慣れるとそれはいつか日常になったりする。
こんな毎日もいつかはそれぞれの日常になるんだろう。

芸術や文化は、そんな僕たちの日常に色を添えてくれる。
時には優しく、また時には、日常を非日常にも変えてしまう凄いチカラがあって、僕はそれにずっと魅了されている。
そのくせ、たまに大嫌いにもなる。

かたちある僕たちは、かたちなきものを信じたり、疑ったりする。

かたちがあるものはいつかは朽ち果ててしまう。
一方かたちがないものは、朽ち果てることもなく、ウィルスにも感染しない。

映像も音楽も洋服も、本当の本当は欲望やお金とは遠い存在であると思うし、遠い存在であってほしいと願っている。
それはきっと純粋で無垢な、かたちなきものを僕たちが信じているからだ。

We can’t change the world,
but we can change our “Consciousness.”
(僕たちは世界をかえることができない、でも僕たちは"意識"をかえることができる。)

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