パティナの心

宮崎です。

GWをきっかけに、とりあえず8日までの10日間、毎日更新したいと思っております。
本日は昭和の日ということで、当店唯一の昭和生まれの私から、10日連続Blogをスタートさせていただきます。

この文章は、私の仕事関係の何名かにシェアさせていただいた文章を改めて修正した内容になっています。
全く服の話ではございませんが、 若い皆様に何か少しでも伝わるものがあれば嬉しいです。


「パティナの心」

去年、石部くんに誘われて行った経堂のラーメン屋の店主から”パティナ”という言葉を教えてもらいました。
それが何故かキッカケになり、自分の美意識について改めて考えてみました。


「朽葉の美学」

朽葉(くちば)という言葉があります。文字通り、朽ちた葉っぱ。

千年以上前の平安時代から朽葉色という色があるぐらい、
季節が移ろい、葉の色がくすみ、朽ちていく葉に、日本人は美意識を見出していました。

高校生だった自分は、侘び寂びに通づるこの言葉に感銘を受け、
そしてそれを勝手に朽葉の美学と名づけました。

今でも経年変化する素材や、石や木や革等の表情、錆、儚いもの、所謂プリミティブなモノや日本の美意識に心はときめくし、
意識的にそういうものを好んで身の回りに置いています。


「なぜ美意識を鍛えるのか」

山口周先生の著書のなかに、カントの言葉を引用して"美しい"という言葉にふれています。

意訳ですが、

"良い"という言葉には必ず目的があり、それを意識して良いと感じるのだが、
(この○は良い○だ。に対する○の目的。例えば○が包丁だとすれば包丁には切るという目的がある。人は”良さ”を合理的な目的によって理解する。)
美しいという感覚は、必ずしも目的がはっきりせずとも、人は美しいと感じる時、結果それは何かしらの合理的な目的に当てはまる。

という言葉があり、

"美しい=良い"ことである上に、”美しい"を感じるための美意識は鍛えることが出来る。
そして美意識に内包される理性と感性を鍛えた先に、きっと主観や感情を超えた、
物事をフラットかつ本質的に捉える”直観"が身につくのだと解釈しました。
理性×感性=直観という図式です。

「自由とは」

最近、SNSでの自己表現は承認欲求ではなく、現代における生存本能であるという面白い言葉を聞きました。

人類史上類を見ないスピードで進む現在、そこから蹴落とされないために、自分の朧げな存在を必死にSNSを駆使して表明する。
そういう人々がたくさんいる。
その姿に何とも言えない気持ちになる時があります。

所謂アーティストと呼ばれる人々に関わらず、人間はオリジナルの自由を求め、焦がれ、自己表現をする生き方、
全ての人々がアーティストである世界、アーティストとして存在できる優しい世界。そんな自由な世界を私は理想だと思っています。

まぁ、基本的に人の悪口を言って暮らしているので、まず己の性根を叩き直す必要がありますが。笑

補足すると、
決して自由=若さではなく、不自由の中で自由を模索するのが若さとも言えるでしょうし、
"自分の好きなこと”という言葉を振りかざし、公からの逃げ道にするものではありません。
そもそも個は公とは切り離すことは出来ず、公の中に個が存在し、責任のない自由は人を欲望の奴隷に変えてしまいます。
自由とは何でも許されることではなく、自由とは責任だとも言えるかと思います。

もちろん若さが生み出す高温度のエネルギーは素晴らしく、
歳を重ねると温度を保つことも少し難しくなります。

鎖を解いて自由になるため、努力は必須です。そうすれば歳を重ねれば重ねるほど自由になれると私は信じています。

そして自分を含めた、自由を求め、自己実現の志を持つ人々が集まり、交流すること、
即ちMukta / Sal 通して、
新しい観点と熱と美意識を鍛えられる場所を、これからも皆様と作り上げたいと思っています。
熱は摩擦を起こさないと生まれない。という言葉が大好きです。

日々は素晴らしく、美しい。しかし私にはちと退屈です。

宮崎


パティナ
(英語: Patina、発音: [ˈpætɪnə] もしくは [pəˈtiːnə])とは、石、銅、青銅や似たような物質(酸化や化学的処理による)、木製家具(経年、摩耗、摩擦による)、皮革製品等の表層のうち、経年や曝露により変化を生じたものを言う。

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