Diary 047 - sulvamと編集するということについて
Diary 047 - sulvamと編集するということについて
先日、「わたしと、『花椿』」という書籍を読み終わった。大阪のユニーク・ショップ、FOMEで購入したものだった。
この本は、資生堂から出版されるいわゆる企業広報誌でありながら、大いに文化的な発信を行う稀有な雑誌、「花椿」のエディターだった、林央子氏によるWeb連載を、加筆修正してまとめたコラム集だ。
林氏は90年代のアート・シーンやファッション、ストリートカルチャーをひとりの日本人女性という視点をキープした上で物語を紡ぎ、エディター、文化の紹介者としての役目を果たしてきた。
Purple Magazine、ホンマタカシ、ソフィア・コッポラ、スーザン・チャンチオロ、キム・ゴードンに、マルタン・マルジェラ、マーク・ボスウィック、ヴォルフガング・ティルマンス、エトセトラ、エトセトラ...その時代をほとんど生きておらず、雑誌やネットを媒介してのみ、それらの単語を見聞きしてきた自分にとっては、その文字の並びを見るだけでクラクラするほどコッテリとした、オルタナティブな90年代を感じられる。
彼女が、彼女自身を中心とするアーティストやデザイナーたちとの、繋がりのニューロンを連結させ、編集して媒体に残してきたことが、僕がそういう感覚を覚える要因のひとつになっているのだろうと思うと、その仕事の尊さに思いを馳せずにはいられない。
改めて気が付いたことは、セレクト・ショップもほとんど雑誌のようなものなんだ、ということだった。ひとつの問題提起や好奇心から始まり、洋服というモノを媒介にして、自分たちが尊重したいひとつの生き方や考え方を提示する。誰がどのような視点で何を感じたか、その編集力がすなわちお店の個性に通ずる。
誤解を恐れずに言えば、セレクト・ショップという業態は半ばオワコンに近づいている。右を見ても左を見ても素敵な商品が揃っているお店があり、どんなブランドのどんな洋服が置いてあるかは、もはやそのお店の編集力とはほとんど関係がない。手垢だらけのセールス・トークよりかは、生成AIに文句を頼んだ方がマシだろうか。
ここでしか買えないもの、という客観的な希少価値はセレクト・ショップにおいては既にほとんど消え失せている一方、一点ものという幻想はヴィンテージ市場においてはますます広がっていく。これらは単なる事実であり、その事実に対して、僕は悲観的にも楽観的にも捉えていない。
強調しておきたいことは、何かに触れた時、後から追いかけてくるそういう二次的三次的情報に惑わされず、個々人が独自の視点で直感的に解釈、編集したもの・ことを感じてみたいということだ。現代ではその指標としての存在が、様々なセレクト・ショップや古着屋などのお店であれば良いな、と思っている。
Worlds Endというお店がVivienne Westwoodの存在なしには語れないように、Mukta / Salというお店を語るにおいてsulvamというブランドを抜きにすることはできない。
先述の書籍をきっかけにして、「編集」という目線でそのsulvamの輪郭に触れてみたいと思う。
僕がsulvamの洋服を見たときにまず感じることは、「手作りみたいな量産服」であるということだ。そして、「sulvam以外ではあり得ない」ということも。
「手作りみたいな量産服」であることは、「オートクチュールのようなレディ・メイド」とも言えるかもしれない。その全てがフリーハンドで引かれたパターン・メイキングから生まれ、それがそのままデザインとしても機能する。一見アヴァンギャルドなデザインも、守破離のごとくパターンワークの原則を土台に据えた上で生まれてくる。結果的に生まれた洋服には赤ん坊のようなランダムで無邪気な遊びと、凛としたテーラリングの顔が両立して立ち現れてくる。(プロセスは違えど、KIKO KOSTADINOVにも同じ香りがする。)その意味で、一点一点手作りのような香りがしながら、理にかなった量産服というコントラストが生まれてくる。
それらが数十着あるいは数百着、もしかしたら数千着が同時に存在するということに驚いてしまう。少し前にデムナ・ヴァザリアがディレクターを務めるBALENCIAGAが、大量生産の象徴であるジーンズをオート・クチュールで発表したことで世間を騒がせていたが、sulvamのプライス感で、ある意味その逆のアプローチを行っていることを改めて考えてみると、その面白さが少しは想像できるかもしれない。
そして、「sulvam以外ではあり得ない」ということは、一度でもsulvamの洋服に触れたことがある人であれば容易に想像できそうだけれど、その全ての洋服が文字通りsulvam以外ではあり得なく、どこをどう切り取ったとしてもsulvamの洋服として存在し続ける。見たことがありそうでない服、とか、見たことがなさそうである服、とか、そういう次元でなく、sulvamの洋服はただsulvamの洋服としてそこにある。
これが一体何か?それは洋服に触れた人自身が定義するより他ない。デザイナーである藤田氏は決まった答えを提示しない。そもそも常に決まりきった一つの答えなど存在していないことを教えてくれる。(こちらはRANDYにも通ずるのかも。)
誰がどのような視点で何を感じたか。ある個人が感じた問題提起や好奇心から始まり、そこから漂ってくる、蜃気楼のようにゆらめくムードを言語化し、現世に固定することで、物語を紡いでゆく。
「編集」という行為は、規則的で画一的な現代の流れの中で、誰しも自身がランダムで偶発的で代替不可能であるということを再確認するために、そして自らの言葉で物語を紡いでいくために、不可欠な営みであるような気がする。
sulvamの洋服は、そのような編集行為をするにあたって、最も興味深い存在としてMukta / Salにこれからも在り続けるのだろう。
sulvam SS23 Collection
https://mukta.jp/collections/sulvam
イタイタイコウ